この広い広いお坊ちゃん学校に閉じ込められてはや一ヶ月
入学して桜も落ち、藤も身頃を終えたこの季節。
地図は頭に叩き込み終わってはいるがまだ不安な敷地内を歩くのは一年の西院藤孝(さいいん ふじたか)。
やがて鬱蒼と生い茂る木々の間に身を潜めて今日も溜息一つ。
やっと静かになったと憂鬱の原因を見渡せば崎先輩、崎先輩さきせんぱいサキセンパイ。と鸚鵡のように繰り返す同級生。
お前等阿呆か!
同じ視線で媚びた態度で、ああなんて醜悪なんだろう。
軽々とクロッキーを片手に木にのぼり身体を太い枝に巻きつけて心地よい息を吐く。
この自然の多さだけは認めてもいい。
なんといっても空気が緑の息を吸ってとても瑞々しく美味しいのだ。
ああ、幸せ。
枝の先に最近よく顔を見せてくれる、瑠璃色のお嬢さんが愛らしい声と共に姿を見せてくれる。
「綺麗だなあ、お前。今日もよろしくな、俺の小悪魔さん」
手のひらに包まれてしまう小さな身体は丸みを帯びて優雅に光円らな瞳は純真、声は甘く小さく。
俺の知ってる可愛い小鳥はとても魅力的なお嬢さんで、入学早々嫌気が差して林を散策していたらその姿をひらりひらりと見せ付けてくれたわけだ。
おかげでこうして日参する羽目に陥っている、美女に陥落した男と同じように。
仕方が無い、美しいのだから。
俺の持参するパン屑目当てとしっているけどね、そんな現金なところも魅力的だよお嬢さん。
太い枝にそっとパン屑を置けば丁寧についばむ姿を一瞬たりとも逃すまいとクロッキーに鉛筆を走らせる。
勿論お嬢さんはパンを食べ終えれば俺には用無しと飛び立ってしまうのだが。
稀に気まぐれで居ついてくれる時もあるのだけれど。
お陰でデッサンの腕が上がるあがる。
なんといっても美しい羽一つ目に焼き付けてその姿をこの紙に焼き付けなければならないという使命を帯びている俺としては必死にならざるを得ないのだから。
週に一回師匠の所へデッサンを送る約束も今の所しっかりと守られているし、あの五月蝿い鸚鵡共の声さえ遮られればこの不自由な全寮制生活もそんなに悪いものではないかも、と思い始めた頃だった。
新しい頁に学校の建物を軽く描いていた手を止めて耳を、澄ます。
ヴァイオリンの音色が新緑の香りと共に俺の耳に初めて水琴窟の音を聞いた衝撃と同じ強さを与えた。
小さな、小さな・・・でも確かに聞こえた音。
水晶がぶつかり音を立てるような、鍾乳洞の水の音のような、いいや喩えなぞは何の役にもたたない。
泣きそうな気分で木を降りて音を丁寧に辿りながらヴァイオリンの静謐な音を邪魔しないように細心の注意を払い近づいていく。
その先は温室で、中に人が、いや
天使が、そこに居た。
ヴァイオリンを構えた細い身体の黒い髪の、目を伏せた
「月読命」
気がつけば口に出してた。
精錬な姿、鉱物のさざなみあう音のような音楽を奏で、冷静に暦を司る強さ。
涙が頬を伝う。
幾千幾万の言葉で賛美しても足りない、なんてなんて、美しい人。
気がつけばクロッキーに、鉛筆を走らせていた。
美しい人が温室を去っても暫くその場を動けないで居た。手足が痺れている。
胸が詰まって涙が止まらない、幼い頃から願ってやまなかった美しい人、天上を仰げば白い月が光を降り注ぐ。
あの月の様に美しい人。
目を細めてクロッキーを抱きしめ月の皇子をこの手で描こう、あの美しさを余すところ無く描こう、とそう決めながら寮への道を急ぎ走る。
誰かにぶつかりながら一階の寮の部屋へ勢いそのまま飛び込むと、同室の野辺孝明(のべ たかあき)に真正面からぶつかって二人して床に倒れた。
「西院!お前」
「野辺!見つけた、見つけたぞ天啓だ、ああ天啓だ!月読命だ、月の皇子だ、菊の童子だ、ああなんて素晴らしい日だろう!」
床に転がった野辺を抱きしめて叫び狂う。
扉は半分はいたままで大きな声で叫ぶものだから隣の部屋の桜花 玲(おうか れい)と四方山 正一(よもやま しょういち)が入ってきて扉を閉め二人を助け起こす。
助け起こされた強さのまま二人に抱きつき踊りださんばかりに動く西院に三人が目を合わせて溜息をつく。
「野辺、西院はどうしたんだ?」
「よくわからん」
「野辺がわからないならあれかな、芸術病」
「桜花、芸術病ってなに?」
「芸術家特有のよくわからない事を総称して今僕が名づけたんだよ四方山」
「とりあえず」
野辺が西院を引き剥がし両手を素早く高く上げると次の瞬間バチン、鋭い音が響く。
西院は両頬を野辺の大きく無骨な手で挟まれたまま顔を近付けれられて低いうなり声を聞いた。
「腹が減ってんだよ、誰かさんを待っていたせいでな!」
あまりの迫力にうん、と頷いた西院はそのまま襟首をつかまれ食堂へ連行されて行った。
チキン南蛮定食に溜息を吹きかけつつ、四人の一年生は肩身が狭い食堂で端を狙い座る。
この四人がつるむのには実はわけがあり、脱落組なのである、何のって、実家の密命を受けた脱落、つまり崎義一とのお近づき諦め組なのだ。
四方山曰く、今時流行の草食男子だし俺等。との事。
まあ同学年には有名人が沢山いるし、崎センパイとは同じ学校ってだけでもう充分じゃね?という諦めの境地なわけだ。
野辺は「崎先輩という大物に近づく密命をどうしてこいつが与えられたのかさっぱりわからない。どう考えても無理だろう」と西院を指して言えば、違いない、と桜花が笑う。
この四人、良いお育ちの筈だが妙に庶民的で気が合うのだ。
むしろ実家から離れられて清々している節がある。
折角なので高校生としての生活を楽しみましょうよ、と笑い合うのは大人すぎて滑稽ですらあるのだが。
さて、チキン南蛮の鶏肉がいつの間にか一切れ減っても気がつかない西院を目の前に桜花が人形のように綺麗な顔でにやり、と悪党顔をした。
「野辺、今日はなんなのかな?先月は麗しいお嬢さんを褒め称えていたよね?」
「あー結局オオルリに一目惚れしてた話か。で、今回は何に惚れたのか」
にやにやと既にツーカーとなりつつある四つの瞳で見つめられて野辺は大きな溜息をついて、桜花が奪ったチキン南蛮を西院の皿に戻してやる。
「俺もつい今しがた奇行に遭遇したばかりだ、内容まではわからんぞ」
三人が西院の方を向けば目をうっとりと潤ませて溜息をついていた。
「どうみても恋だよね」
「間違いなく恋だな」
「問題は誰に、というか何にという事だ」
それなりに生活を楽しむ術を知っている三人は頷きあって、入学二週間目で奇人変人鬼才の三つの異名をいただいた同級生の顔を見て頷きあう。
その時、三年生の華やかな集団が食堂の入り口に現れた。
階段長の矢倉先輩、級長野沢先輩、風紀委員長赤池先輩、生徒会長三洲先輩、最後にひっそりと副級長葉山先輩。
豪華な面々の中にいつも静かに居る葉山先輩に陰口を言う輩もいるが、違和感無くそこに居る人。
そして、密命を帯びた一年生が皆知っている人。
あそこから近づくのは難しいと既に知られてはいるけれども・・・
まああの面々に話しかけるなんて心臓の悪い事はしたくないなあと、視線を大事な食事に向けた瞬間、西院の手から箸が落ちた。
そして視線を辿れば・・・ああ嫌な予感。
あの華やかな面々へと切ない視線が真っ直ぐ向いていたのだ。
これは面倒な事になりそうだ、というのは三人の共通した意見であり、予感であり・・・悲しい事に確信であった。
数日後の夕方、部活に行く前に寮の部屋へ寄った野辺は扉を開けるなり膠の匂いに首を傾げ、その匂いの元になる人物が居ないに眉をひそめる。
ここ数日熱心にクロッキー帳に向かっていた西院は野辺の言葉も聞こえない様子で爛々と目を輝かせたままであったが、絶対にクロッキー帳を手放さなかった、食事の際でさえ。
そのクロッキー帳が机に開いたまま放置されていてなおかつ本人が居ないのだ。
放っておけば寝食忘れて打ち込む西院は目が離せない存在ではあるが、基本余計な詮索もせず、問題も起こさない。悪くは無い同室者なのだ。
他人同士でも同室で過ごしていれば情もわく。
さて、部活の時間もあるし、どうしたものか、と息を吐いてひとまず自分の部活の準備をしよう、とクロークに向かう途中ちらっと開いたクロッキーが目に入る。
美しい人がそこにあった。
姿勢の良い、美しく細い男。
神聖さすら感じる・・・葉山託生。
嫌な予感は的中するが、兄に何度も言われた「君子危うきに近寄らず」の教訓が脳内を流れ、野辺は黙って部活動具を手に「よし、俺は何も見なかった」と自分に言い聞かせ室内を後にした。
廊下を歩きながら「手助けするんだろうな。ああしちゃうんだろうけどなっ絶対面倒な事になるんだっわかっているけどな、よりによって葉山託生先輩だなんて」と毒付ながら足早に弓道場へ向かって行く。
日頃沈着冷静な男が魘されたようにぶつぶつ言いながらあるく様子を奇妙と好奇の入り混じった視線が飛び交うのも知らず去る背中を見ていた男がす、と目を細ませて、近くの下級生に声をかける。
「今の彼は知っているか?」
「あ、赤池先輩!はい、あいつは弓道部の野辺孝明です」
「そうか、有難うな。野辺孝明、か」
憧れの華やかな赤池先輩に声をかけられてほうっとなっている一年生を置いて、赤池の頭脳はチェック組のリストをさらいはじめた。
「時間が無いんだよ!早く了承して送って欲しい」
顔にも雰囲気にも似ていない激昂した様子で電話口に向かっている西院を見て知っている者は驚きの視線を隠せず、だが口を噤んで通り過ぎていく。
電話する時間には制限時間があるのだ。祠堂のお約束を頭に入れてストップウォッチを目の前においたまま西院は電話口に噛み付く。
『藤孝』
窘めるように電話の向こうの柔らかい声が響く
『送るのはやぶさかではないよ?ただ欲しいものを望むがまま手に入れる傲慢さは身につけて欲しく無いのはわかるね?』
「わかるけど・・・」
『何故、ソレが必要なのかな?』
「必要だから、どうしてもどうしても」
『どうして?今手元にあるものでは足りないのか?』
「足りない、あの人の美しさを表すには全然足りない」
小さな笑い声が電話の向こうで聞こえた。
『ならばまず水墨で描いてこちらへ送ってみてご覧。己の技術の無さを道具のせいにしているのかそうではないのか検討してみたいし、お前が美しいと思ったものを私も見てみたいからね』
「わかった、送って納得したら送ってくれるんだよね?」
『勿論。群青だけとは言わずセットで送ってあげよう』
「有難う我儘言ってごめんさい、父さん」
目の前のストップウォッチが時間を告げている。
『かまわないよ、季節の変わり目だから身体に気をつけなさいね、それから母さんにも手紙を送ってあげなさい』
「わかった、じゃあおやすみなさい」
『お休み』
時間ぴったりに電話を切って、電話番に軽く一礼をしたまま走り出した西院は走り出した、心のままに。
踊るように自室へたどり着くと、うっかり衝動のまま飛び出したせいで開けっ放しだったクロッキーを丁寧に手でなぞり、そこに描いた人物目を細める。
今日も温室にいたあの人。
細い首筋、器用に動く指先、白い耳たぶ。
温室の硝子越しに見るあの人を目に焼き付けて、今日もクロッキーを埋めて行く。
あの人をどう描こう。相応しい高貴な色で緑と青をふんだんに使おう。
頬を揺れる黒髪は黒曜石のように輝き、思い通りに出せた一音に綻ぶ口元は初梅のよう。
瞼に思い浮かべるだけで心から零れる甘露の雫。
名前を、名を呟こうとした瞬間・・・
名前を知らない事に気がついた。
ドンドンドンドン!!!!
激しく扉を叩く音に眉を顰めて桜花は何?と不機嫌そうな声を出し扉を開けたと同時に自分と同じ背丈がしがみ付いてきた。
切り揃えた黒髪に白い頬、よくしった膠の匂い。
「西院?どうしたの」
常に手放さないクロッキーを手に一度身体を離した西院の顔は泣きそうに歪んでいる。
「桜花、名前がわからないんだ」
「誰の?」
「あの人の、月読命の」
「誰・・・?」
幻想的な井出たちに反して桜花はそら恐ろしいほどリアリストなのである。
ちょうど西院の背後で帰宅してきた四方山を見て桜花は肩を竦めた。
「おかえり正一、本当に待っていたよ」
一瞬にて状況把握をした四方山は黙って室内に入り荷物を置くと、机上のメモに至急、と殴り書き下に署名をすると隣室へメモを置きに行った。
桜花は一先ず西院を落ち着かせようと自分のベッドに西院を座らせて、先刻汲んで来たばかりのお湯でインスタントの緑茶をいれると西院の手にそれを渡す。
「零さないようにね、火傷するから」
「うん」
緑茶に口をつけた所で四方山が帰ってきて、桜花から緑茶を受け取るとその香りに顔を綻ばせ自分の椅子に座ると無駄に長い足を組む。
「で、どうしたんだ西院」
四方山の声に顔を上げて泣きそうだった瞳からころん、と涙が一つ落ちたのを見て若干動揺した四方山に桜花が言葉を繋げる。
「月読命の名前がわからないんだって」
「月読命?神のマナはわからないで当然だろう?比喩?西院、月読命って誰の事だ?」
暖かい緑茶で若干落ち着いた西院はクロッキーを開こうとしたので四方山がカップを軽い仕草でとりあげて机に置く。
西院はありがとう、と静かに礼を告げ、クロッキーを捲り一番綺麗に描けたと思うかの人の頁を開いて見せた。
「この人の名前」
顔の前にクロッキーを置いた音と扉が開く音は同時だった。
「「葉山託生先輩!?」」
四方山と桜花のダブった声と肩を落とした野辺のああ、という声が重なり、四人は顔を見合わせる。
崎義一先輩にお近づきになりたい面々が半数以上知っている名前で、もしかしたら崎義一の宝物かもしれないと邪推されている名前。
面倒事だったよ、という三人の心境とは裏腹に、「はやまたくみ」と口ずさんだ西院は幸せそうだ。
「ねえ、どんな漢字を書くの?」
こうなってはこいつは引かない。絶対に引かない。
諦めの息を吐いて桜花がメモ帳を引き寄せて紙に葉山託生、と書いて見せれば満面の笑みを浮かべて西院がメモを抱きしめる。
周りの利害関係なぞなんのその、こいつ絶対葉山先輩に突撃するぞ、という危惧をよそに西院は暫くそれで満足したのが意外だった。
美術部に所属しているも、彼の自由奔放すぎる活動に苦笑いしている部員たちではあるが、まあ何をするにも確実に西院が絵を描いているのには間違いはないので、
放置しているというのが実情だろう。
時折美術室に置きっぱなしにしている西院の道具が増えたり減ったりしているのが良い証拠というものだ。
部長曰く「鬼才は一般人に手に負えないものだからねえ」と笑うだけ。
西院の評価は不思議なもので何かに憑かれなければ少し天然の入った真面目な学生なのである。
勉学にも勤しみ運動は苦手だが何事にも真面目に打ち込む。
ただ、彼の、西院の奇行は既に知れ渡っており、警戒の対象というのは致し方ないものではあるが。
同室の野辺とその隣室の友人達、桜花と四方山以外は何も心配していない穏やかな日々が過ぎていった。
問題の西院であるがその間何をしているかというと、日中は真面目に学生をしているが、授業が終わると真っ先に晴れの日も雨の日もとある所へ出かけていく。
温室だ。
正確には温室の近く。
そこで毎日葉山の演奏を聞きながらクロッキーに鉛筆を走らせて、葉山が帰った後は美術室に寄り、自室に帰り只管筆を走らせる。
野辺が襟首掴んで食堂に連行しなければきっと食事を撮らずにそのまま描き続けるであろう事が容易に知れるほどに西院は夢中になっていた。
そんなある日、野辺は珍しく早く終わった練習から戻ると部屋に西院がおり、更にクロッキーも画帳もなく、机に道具も広げていないという光景に目を疑う。
西院はベッドに仰向けに横たわり目を開いたままじっと動かない。
「藤孝?」
荷物を置いて、汗ばむ肌のまま西院の近くに寄ると、西院は静かに涙を流している。
「おい、どうした藤孝」
まさか、と野辺は西院のシャツのボタンを外して首筋や腕を確認し、無体の跡を確認するもその様子は無く安堵の息を吐き、藤孝、と再度声をかけるも涙はそのままに意識すら此方へ向かない。
頬を軽く叩き、細い肩に腕を回して弟を慰めるように西院の身体を抱きしめると、ようやく野辺に気がついたかのように小さく孝明と呟かれた。
「あんな、相応しくないのに」
嗚咽を堪えた西院の様子に野辺は黙って抱きしめたまま、ああそうか、噂通りだったかと得心したまま西院の衝撃ごと宥める。
「失望したか、嫌いになったか?」
この全寮制の男子校では往々にしてソウイウコトがある。
そして時には力無い者を踏み躙る事も。
三年の高林泉先輩なぞ、よくもそんな目に合わずにやってこれたものだと思うほどに綺麗な人なのだが、ああいうのは特例だ。
実際問題として、権力のある子弟が多く居るこの学校では権力の使い方等を学びすぎるほどに学んだ者達も多く非常に厄介にはなっている。
噂ほどには真実はないけれど、ほんの一握りの真実と噂にものぼらない真実がそこにあるのだ。
「してない」
「そうか」
あんなに葉山託生の事を追いかけていればそのうち見る事になったであろう、崎義一との関係を。
「葉山さんは綺麗だった」
「そうか」
重症だな、と呟けば「かもしれない」と小さく笑う声。
「でもあんな奴には葉山さんは相応しくない」
葉山託生を神聖視に近い目線で見ていたのは西院の絵を見れば一目瞭然だった。
その事を危惧していたのは桜花も四方山も一緒で。
「そうか」
「そうだよ」
ぐずってはいるが、泣いて落ち着いた様子の西院の髪を撫でて泣き腫らした目元を指先でぬぐってやると、野辺は頭をぽんぽんと叩く。
「その顔じゃ学食行けないだろう?飯持ってきてやるからここにいろ」
うん、と素直に頷く西院をかるくみやって、野辺は部屋を後にした。
野辺の心配をよそに持ってこられた食事をぺろりと平らげた西院はそのまま何時も通り画帳へと向かう。
先日送られてきた天然岩絵の具を並べたまま勉強もせずひたすら白い紙へ挑み続けている。
消灯後は流石に寝る日も多いがどうしても手を動かさずには居られない日はそっと部屋を抜け出して月明かりの元で描く。
一睡もせず描き続けて朝方帰ってきてそのまま授業へ向かう姿に心配を募らせてはいるが、声をかけても大丈夫の一点張り。
元々細い身体が一層細くなり、目の下の隈が消えなくなって級友達の心配の視線をそのままに一週間が経った。
その日もいつものように温室の直ぐ傍で葉山さんの演奏を聞きながらクロッキーに鉛筆を走らせる。
天気の良い日で、だけれど少し風が強い日で。
巻き起こった風が下から煽りを受けたように舞い上がり前髪が目に入った痛さに目を瞑り、西院は泣きそうになった。
と、クロッキーに挟んだ数枚のデッサンが風に舞っている。
「ちょっと、待って!」
叫んだのに、叫んだからかデッサンは葉山の音を止め更に西院にとっては最悪な事に硝子越しの目の前に落ちてしまった。
邪魔するつもりなんてなかった、見ているだけでよかったのに、音を、自分のせいで止めてしまった。
絶望感すら感じて動けないままだった西院の前に葉山さんがヴァイオリンをケースに戻して温室から出てきて更にデッサンを拾って。
「これ、君の?」
微笑んだ。
瓦解した、世界が、光が。
気がつけば西院は涙を溢れさせ、デッサンを受け取る事すらできずにごめんなさい、と顔を覆ったまま膝をつく。
「どうしたの?」
いきなり現れてしかも泣き崩れる下級生相手に少し動揺したまま手を差し伸べて、取りあえず座らせたままは駄目だよね、と温室の中のベンチへと誘えば警戒心すらない様子で西院はベンチに座る。
ハンカチを渡されて、下から覗き込まれどうしたの?どこか痛いの?と聞かれればそんな事はない、違う、自分など気にしないでと伝えたいのに涙しか出ない。
違います、ごめんなさい、とわけのわからない返答しか出ないこの口が憎い。困らせたいわけじゃないのに。
葉山さんがうーんと小さく呟いて、手にしたままのデッサンに目をやる。
青ざめて、まさか、と思ったが遅い。
「綺麗だね、何の鳥?」
そこには着色したオオルリの絵と、遠目の葉山さんのデッサン、計二枚。
「オオルリ、です」
泣き声のまま答えれば「凄く綺麗な羽だねえ」と無邪気に微笑まれたのがあまりに新鮮で、胸の中が苦しくなる。
「綺麗な絵を描くんだね、凄く好きだなあ」
何で泣いたのか、とか。
何処に居たのかとか何も聞かない。
澄んだ人。
ぽん、と肩を誰かに押された気がした。
「さ、差し上げます、よろしければ、お気に召していただけたならですけれど」
上ずった声で言えばくるりと黒目がちな瞳がまたたく。
「いいの?」
「勿論です」
「なんかおねだりしたみたいだね、ごめんね」
「とんでもないです!」
「有難う」
「いえ!」
言うが早いか、西院は頭を素早く下げて温室を飛び出して全速力で走り出した。
「お帰り三洲君」
「ただいま葉山」
自室へ帰った三洲は柔らかい微笑みと共に迎えた託生の机の上に絵をみつけ、肩越しにそれを見ながら珍しいと葉山をみやる。
「いっておくけど、僕が描いたんじゃないからね」
唇を少し上げて言う託生にわかるさ、とネクタイを解きながら絵をじっと見つめると、多分一年生だと思うんだけど。と続けた託生に一年?と三洲が聞き返す。
「今日温室に居たら紙が飛ばされてきてそれを拾ったらこの絵だったんだよ。綺麗だねって褒めたら差し上げますって。
勿論貰ったのはこのオオルリの絵の方でデッサンは違うから返したいんだけど・・・というか強請ったみたいで悪かったなあと思うけどこれ本当に綺麗じゃない?
だからもう一回聞きたいのと人物像の方は返したいんだけど・・・」
「名前を聞きそびれたと?」
「うん、そうなんだ・・・」
「迂闊だな、名前書いてあるじゃないか端に」
確かに絵の端に名前と朱印がある。
「これ多分雅号だから本名じゃないかもしれないよ?」
「雅号・・・ああ、P・Nみたいなものか。藤孝・・・藤孝どこかで・・・」
三洲が脳内を洗い始めた時館内放送が鳴る「三年葉山託生さんお電話です」
「ごめん、三洲君ちょっと行ってくる!食事先に行ってて!」
走り出した託生の見送って、もう一枚のデッサンを見た三洲は、ん、と首を傾げた。
「このデッサン、葉山に似てないか?」
学食に行く準備をしながら三洲は絵、藤孝、葉山のデッサンと単語を思い浮かべながら部屋を出て行った。
学食に行けば図々しくもちゃっかりと赤池や矢倉達と一緒に席について「アラタさーん!こっちこっち!」と手を振る真行寺がおり、まあわざわざ席をとる労力が省けたという事でそれを許し、三洲は真行寺のひいた椅子に座る。
「生徒会長も大変だな三洲」
「そうでもないよ風紀委員長」
にこやかに会話を進めながら、近況報告と情報収集を進めつつ食事をとりいちいちちょっかいを出してくる真行寺をいなしつつ耳を傾けていれば、何時も通りだれそれが揉めただのそんな話が続く。
そんな中「意外と真行寺は揉め事の渦中に入らないよな、こんなにアクティブなのに問題児にならない」
とからかう矢倉に「あたりまえっすよー」と笑う真行寺。
問題児。
何かがひっかかった。
あ、と三洲の中で符号が一致しそうな感触。
「赤池君」
「何だ?」
「そういえば一年に問題児がいた筈・・・奇行に走ったとか」
「ああ・・・一応チェック組の・・・あれか自分から窓落ちした奇行の。ギイに近寄る様子も無いアレ・・・それが?」
「名前わかるか?」
「西院藤孝」
横槍を入れるように矢倉が口を開く。
「一階に居るから一応チェックしてるんだけどね、でもあいつなら大丈夫だと思うけど、ギイに対してはって意味で」
「どういう事かい?」
「諦め組だから。他には確か・・・桜花、四方山、野辺とかも確かそうだよ。おそらく実家からギイに近付けって言われて来てる筈なんだけど、近寄る素振りも無い無害組」
「ギイにって事は他には?」
「突っ込むねえ三洲。西院はちょっと気をつけなきゃいけない生徒なんだよ。奇行って事は知られてるけど内情はあまり知られてないわけでね。
あいつ画壇デビューしてる天才児らしい」
「らしい?」
「あくまで噂だけどな。だけど奇行としては知っておかなきゃいけないからって先生から聞いてるわけだ。
あいつ、授業中に鳥を追おうとして窓から落っこちてるんだ」
流石の赤池も驚いた様子ではあ!?と目を丸くして顔を向ける。
「幼稚園児じゃあるまいし。大丈夫なのかそいつ」
「いや、普段はいたって真面目な生徒なんだがな。まあその時はちょっと違ったみたいで。
鳥の羽がきらきら綺麗だったからって突然窓から飛び降りたんだそうだ。幸い二階だったから怪我もなくてよかったらしいけど。
な?ちょっと目をつけてなきゃ駄目なエピソードだろう?だけど本人は見てみれば本当に真面目な普通の生徒なんだ、こいつがあんな奇行に走るなんて思えない程に」
「余計怖いな、トラブルは?」
「今の所何も無し。欝かなって心配もあったらしいけどその線も問題なしと出てるわけだ。
同室の野辺には何かあったら直ぐに来るように言ってあるけどな」
矢倉の話聞きながら赤池が「野辺孝明」とぽつりと呟く。
「野辺?」
「いや、ちょっと前に野辺が葉山の名前を言いながら歩いていたから何だったのかと思って」
真行寺がええっと強い反応を示す。
「それってギイ先輩諦めたんじゃなくって葉山さんから攻めようって魂胆なんじゃっ」
「あーどうだろうな、一応見ておくよ」
矢倉の多分大丈夫だろうけど、という付けたしにそうだな、と返答しつつ、三洲の中ではカチリと符号が合わさった。
その日もよく晴れた日で、託生はヴァイオリンをかき鳴らしていた。
よく響き、濃い緑の香りと共に遠くで水の香りがするので早めに終わりにしようとした時、温室の扉が静かに開く。
顔を上げればそこには先日の絵の持ち主が立っていた。
デッサンは三洲が「その内取りに来るだろうから持ってたらどうだ?」と言ったので持っていたから丁度良かった。
託生は静かに歩いて来る下級生に微笑み、「良い天気だねえ」と声をかければハ、と顔を上げて満面の笑みを浮かべた下級生ははいと元気よく答える。
「この間は絵を有難う。本当に貰っちゃって良いの?」
「はい、いただいてもらえるのなら光栄です、あと、あのハンカチ・・・」
おずおずと差し出された手にあるハンカチは記憶にあるハンカチと違い上品な色合いのガーゼハンカチで、愛らしい梟が踊っている絵柄だ。
ん?と託生が首を傾げると、慌てたように下級生は「ごめんなさい」と先日のように謝りだす。
「お借りしたハンカチその、僕の絵の具が少しついてしまって、で、それで変わりなんですけど、気に入らないなら、そのっ」
必死に言い募る様子がなんだか可愛らしくて、託生は小さく笑い出した。
「それでわざわざ?有難う。わあ、可愛いね梟。貰っていいの?」
「はいっ」
「そんなに恐縮しなくても大丈夫だよ、僕怖い先輩じゃないよ?そうだ、名前聞こうと思ってたんだ。僕は三年の葉山託生。君は?」
名乗った瞬間泣きそうな顔をした下級生は唇をきゅ、と噛み締めて涙目のまま元気よく口を開く。
「一年の西院藤孝です」
「西院君だね、あ、そうだこれ」
鞄にいれていたデッサンを差し出すと真っ赤になって受け取った西院君はあの、とさっきと同じように泣きそうな瞳でじっと託生を見つめる。
「時々、で、良いんです、描きたいんです」
「何を?」
「貴方を」
「僕なんかでいいの?」
聞くやいなや西院君の瞳から綺麗な涙が零れ始めた。
「貴方が、良いです」
自然に伸びた手で西院君の頭を撫でた託生は泣かないで欲しい、という気持ちを篭めてうん、と頷く。
「良いよ」
返事を聞いた瞬間瓦解したかのように西院君の身体が崩れ落ち、託生は辛うじて身体を支え地面と衝突するのを防いだ。
と、背後でキイと音がしたと思い振り向けば三洲が立っているのを見て託生は三洲君、と声を上げれば笑いながら三洲が近寄ってきて二人でベンチに西院君を寝かせる。
「これが噂の西院藤孝君か」
「三洲君知ってたの?」
「ちょっと小耳に挟んだだけだよ、彼寝不足と緊張で糸が切れたみたいだね」
「本当だ、隈が凄いね、大丈夫かな」
託生の鞄の中のタオルを枕にクロッキーを抱きしめたまま幸福そうに気絶している西院を見て、所で、と三洲が託生の方に向きなおす。
「折角だし、同室のよしみで一曲聴かせてくれないか?」
「ええ?勿論・・・へたくそでいいなら」
「高尚な耳は持っていないから安心してくれ」
なら、と微笑み託生はヴァイオリンをかまえ弓を手にうっとりとする音色を奏ではじめた。
この曲が終わる頃に目を覚ますであろう西院の事を思いひっそりと口角を上げて三洲は託生の音楽に心を飛ばし始めた。
さあ、崎義一、油断してると大変だぞ、と含み笑いをしながら。
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