良い香りが漂った。
店の表にはOPNE、と有り営業中にも関わらず店内は奥から漂うパンプキンの香りに満ちており、その香りに気を良くしている蒼はヒールを躍らせて沸騰したお湯の音にコンロのつまみに手で触れる。
ピイ―と蒼を呼ぶ寸前で止められたお湯から白い蒸気があがり、やがてそれはベルガモットの高い香りと変わると蒼の機嫌の良さはいっそう上がり、ヘンデルのルッジェロのアリア、緑の牧場よ、を歌う声が伸びやかだ。
ティーポットにティーコジーをかぶせて奥にピアノが置いてあるあまり使われる事の無い喫茶室の中央の飴色に輝くテーブルに湯気をたてるパンプキンパイとティーポットとティーカップ、砂時計がゆっくりと置かれると、近くの椅子に座るでもなく、コツ、とヒールを鳴らして蒼は歌い続ける。
身振り手振りを交えて優しい、耳障りのいい歌だが、魔女への恐れおののく歌であり、音の上下は少ない。
そう、知らない者が聞けばただ優しく甘い歌に聞こえるだろう。
「tutto in voi ritornera’.」
最後のワンフレーズを歌い終えた蒼が何にでもなく一礼すれば、どこからともなく優しい、だがしっかりとした拍手が聞こえた。
「素敵だったわ。」
「有難う涼子さん。いらっしゃいお久しぶりね。」
恭しく舞台に立っているかのような一礼をして蒼が微笑めば涼子も微笑む。
秋も深まった服装らしく、濃紺のショールを巻きモスグリーンのコートを着る涼子から外套をあずかると、蒼は良い所に来てくれたわ、と手を叩いて喜んだ。
「そのようね、パンプキンパイの良い香りがするわ。」
「涼子さんの手にある菓子も美味しそうな香りがする。」
ふふ、と笑いあって、涼子に椅子を勧めながら丁度落ちた砂時計を横にやり、蒼はお気に入りのカップをもう一つ持ってくるとお湯で温めて、琥珀色の紅茶を注ぐ。
「良い香り。美味しそう。」
「南瓜をお客様に頂戴したの。いい南瓜でしょう?紅茶はいつものお店のものよ。」
差し出されたパイを銀のフォークで口に運んだ涼子は目を輝かせて美味しい、と言えば奥から自分の分のパイを持って現れた蒼はでしょう?と言い、涼子と反対側の席に座るとパイを一口含む。
「そういえば病院に行って来たの?」
「よくわかったわね。」
「声・・・・いえ、匂いが少ししたから。」
「・・・・そう。定期検診だったの。」
そっと涼子がお腹を撫でると慈愛の表情で見守る蒼。
「七ヶ月なの。元気に育ってるみたい。」
カップを口元に持っていったまま、蒼は男の子ね、と呟いた。
「どうして?」
「だって・・・そうね、元気がよさそうだから。」
「貴方が言うならばそうかもしれないわね。」
「そういえばどうだったの。この間言っていた話。」
どうって、と一瞬迷ったが涼子はああ、と息を吐く。
「検査の結果間違いなくあの人の子どもだったわ。でも離婚は成立していましたからね、それにあの方も一時疑われて警察に行ってらしたようだけれど結局は自殺という形で話がつくそうよ。」
「今家政婦さんは?」
「昔からいてくれていた人の娘さんがいるわ。前の家政婦さんはさすがに辞めてしまって。離婚届を出したのが家政婦なのだからいられない、という気持ちもあったのでしょうね。」
どうでもいいように言う涼子に蒼は笑う。
「ねえ涼子さん。」
「何かしら?」
「あの日・・・・貴女は一度自分の部屋に帰ったわ。誰が知らなくても私は知っているの。衣装箱を売ったのは私。鍵をかけたのは貴女。だからその責任はとらなくてはいけないの。命が続いているがゆえに。」
「・・・・」
ころん、と蒼は洋服のポケットから石を取り出して、涼子の前に転がす。
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