二十歳の誕生日に月から貰った金の懐中時計と開くまで開けてはいけないと言われた色硝子の箱をそっと直して、今日という日に間に合わなかった蒼に眉を顰めて二人向かい合って食べた懐石料理の味を思い出す。
沢山お食べなさい、どんどん高いものも注文して。という月は完全に据わった目をしており、大丈夫ですか、と問えば蒼に会計回すからいいの、と言い切った月は料理長お薦めの品々を堪能して、その店に取り置きしてあった蒼の秘蔵酒、大吟醸、菊理媛を全部飲んでやると意気込んだが二人でお銚子1本開けるのが精一杯だった。
日本酒は効くわ、と普段あまりお酒を飲まない月の鳴らすブーツの音を聞きながら、月明かりの照らす道を帰り、月が部屋へ上がる階段を上りきるのを見守って自室へと入る。
嬉しさが軽い酔いと綯交ぜになって、蒼がいないのを残念だと思いつつも着ていたジャケットをハンガーにかけた所で扉のノック音を聞いた。
「月さん?」
そういって扉を開ければ目の前にいたのは、中蘇芳に淡木賊の唐花模様の着物に身を包んだ蒼が濃紅の唇で微笑んでいる。
「今いい?」
「え、あ、はい。」
ひらり、と高く結い上げた髪と髪紐が絡まって八雲の前を揺れると、襦袢の青外波がやけに目に付いて、闇に沈んだ帯の御所車の背中が八雲が来るのを疑いもせず進んで行く。
細い廊下を右に曲がり左に曲がり、間の小庭に見える閉じられた古い井戸の上にある枯れかけた紅葉の葉がひらりと落ちる。
こんなにこの家は広かっただろうか。
ぼんやりと思いながらも、唐突に止まった蒼がゆらりと白い手で引いた襖の先に、板張りの部屋がある。
広い庭に面した部屋は道場のようでもあり、稽古場のようでもあった。
はじめて見る部屋の庭に面した方の三分の一は開け放たれており、そこから花吹雪のように紅葉が流れている。
つい、と。
毛氈のひかれた上に座る蒼が用意された黒塗りの杯に白濁の酒を注ぐとその上には紅葉が一つ舞い降り月が歪む。
捧げ持つかのようにして八雲へ向かって渡された杯を八雲は毛氈の上に座り軽く頭を下げて杯を受け飲み干せば喉を焼く熱さと氷のような冷たさが身体を駆け巡りやけに脳裏が冴え渡る。
空になった杯に酒を注ぐ蒼を見ればやけに艶やかな紅が上限の月を描き八雲は二度目の杯を受け妙だ、と思った。
三度目の杯を注がれ八雲は蒼さん、と呼ぶ。
「月さんの所へは行きましたか?」
「いってない。今日は八雲君が特別だから。」
艶やかに笑い、さあ、と杯の端を指で撫でればああこれは蒼ではないな、と思い八雲は杯をあけると、膳の上に手を伸ばし自ら杯をなみなみと満たし、それを目の前の蒼に差し出す。
「私はいい、八雲君の祝いだからね。」
「お流れ頂戴、とは言ってくださらないのですか、いつものように。」
「私は飲んべえじゃないからねえ。」
「蒼さんは酒豪じゃないですけれど、お酒大好きでしょう?
蒼さんが杯を受けてくださらないのは・・・・初めてですね。」
さあ、と杯を押し付ければ蒼は目を細めてけたたましい声でわらう。
髪がいっそう長く赤くなり、一回くるりと回れば鱗模様の着物となり、長くひいた帯がざあと流れる紅葉に揺れて高く結った髪が落ちて扇のように広がった。
哄笑が響き渡り、赤で埋め尽くされた視界を腕で塞ぎ、圧倒的な強さをもってして金の眼が覗き込む顔と目を合わせてはならぬと念じているうちに突然肩が温かくなる。
何事かと目を開ければそこには抹茶色のしとやかな着物を着て薄桃色の帯を山吹色の帯揚げで上げた蒼の首筋が見えた。
珊瑚の簪であげた髪は一筋解れており、その首がゆっくりとこちらを向く。
「八雲君何をしているの、寒いでしょう?」
ふわりと笑う蒼は己が羽織っている紺色の羽織を八雲に着させて、わけのわからない息をついた八雲にゆっくりと杯を渡し注がれる酒。
湯気が立っている。
「有難うございます。」
「いいえ、どういたしまして。」
しんしんと降る雪を眺めて、ただ静かに時間は過ぎるのを八雲は暖かい酒を飲みただ見つめていれば、ふと己が羽織をとってしまい蒼が寒かろう、蒼にこれで風邪でもひかせれば月の怒りに触れるのは必然と蒼を見ればそこには誰もいない。
これは、と思うが早いか、耳に良い声が聞こえた。
はて、と見ればそこには梅を啄ばむ小鳥の姿。
手元の空になった杯が少しの重みが加わり八雲は蒼がいなくなった方向をみれば、そこに中二藍の着物に銀糸の帯を締めた蒼が笑う。
ほう、けきょ、と鳴く声に合わせて杯を開ければ蒼が嬉しそうに八雲の手に手を添えた。
人としては冷たく、生けるものではないものとしては温かいそれにこれは狐に化かされたかと障子を見ても、影はなんらおかしい所がない。
ころころと笑う蒼にこの人はこんな無邪気な笑い方をする人であったか、と首をかしげれば、ほら、と柔らかい声で指を指された先に蜻蛉が飛んでいる。
蒼さん、と言えば何?という返事をして首を傾げる蒼は山吹色の薄物を着ていた。
水の流れる音が遠くからしていて、風鈴が涼しげに鳴る。
小さな氷を杯にいれられて、そこに注がれる水のように透明な酒をええいままよと飲み干せば一陣の風が吹いた。
とん、という音がして後ろを振り向けば袴を履きたすきがけをした凛々しい常とは少し違う蒼が槍を持って姿勢良く立ち上がる。
そうして軽々と槍を回し、朗々とした口調で歌いだしたは黒田武士。
合点がいった。
そういう事かと蒼の勇壮な舞を見ながら酒に手を伸ばせば近くにあったのは真っ黒な大き目の美しい杯。
最後の節を言い終えた蒼がゆっくりと歩き、八雲の目の前に来ると、その杯に酒を注いだ。
八雲は一度手を床に合わせて頭を下げると、頂戴します、とその大きい杯を両手で持って一気に飲み干した。
「見事なり。」
蒼は低い声で満足気に言うとさあと八雲に槍を差し出す。
「舞は不得手で御座いますれば。」
「愚か者め、何も立派に舞えとは言うてはおらぬ。
一指しも舞えぬ不調法者とは何とも情けなや。」
顎を反らして言い放つ姿にこれは厄介なものをと苦笑し、八雲は立ち上がる。
「僭越ながら。」
習った棒術の型をそのままに、朗々と歌う黒田武士になんとか合わせれば、最後の声に合わせて動きを止めた瞬間に蒼が立ち上がり、八雲に向けて天晴れと叫んだ。
「呑み取ったか日本号!」
高く低く響く笑い声を聞きながら八雲は毛氈があった方向を見、何も無いことを不思議と思わなくなった己に小さく笑いをこぼした。
早朝、流石に呑みすぎたかと痛む頭を抱えて台所へ立つと、そこにはテーブルに突っ伏した月の姿があり、モスグリーンのセーターが頼りなげにゆれて八雲を見上げた。
「おはよう・・・。」
「おはよう御座います。月さん昨日のあの量で二日酔いですか?」
「違うわよ、あれは・・・。」
「おはよう。どうしたの二人共?」
昨日散々帰ってこないと月が怒っていた蒼が臙脂の着物に黒い銀の蝶の刺繍がある着物を着て首をかしげている。
月の目元がピクリと動き、蒼、と低い唸り声を出す。
「月、ど、どうしたの?あ、月のお土産ね部屋の前に置いてたでしょう?
わかった?あと八雲君もぎりぎりになっちゃったけど誕生日プレゼントわかった?」
それは直ぐにわかった。
朝扉を開けば直ぐに箱にぶつかりそれを拾い上げて昨日の原因を悟ったのだから。
「有難う御座います。」
月にも一度見てもらおうと持ってきた箱を開ければ、漆塗りの箱の内側には春夏秋冬の蒔絵が美しく、中に見事な黒塗りの杯がある。
「いいえ。八雲君も二十歳になったのだからねえと思って。
ちょっと私趣味に走りすぎたかもしれないとは思ったのだけれどね。
それで、月のも同じ作家の杯でね。」
蒼が解説し終わる前に月の凍えるような冷たい手が蒼の首に回る。
「いつもいつもいつもいつもいっつも!言ってるでしょう!
余計なもの連れてこないでって!!!!!!」
「え?気に入らなかった?」
「気に入ったわよ、それはもう美しい杯だと思ったわ。
蒼の事だから私とお揃いなのでしょう?嬉しいわ、けどね、蒼はいっつも思い入れのあるものに余計なものをひっつけてそれをそのまま持って来る。やめなさいって何度いったらわかるの!」
この家には月が望まぬものは入れぬようになっているが、唯一、蒼が招き入れればそれは入ってくるのだ。
「ごめん、話が・・・」
ああそうか、と二日酔いの月の原因に思い当たる節があり、八雲はひきつる笑いを堪えて月の腕で陰になっていたその問題の杯を見ればそこにある箱は杜若があり、もう一度の八雲への贈り物をみれば箱の上には紅葉流れが流麗に描かれているのに八雲は蒼の気がつかぬうちに惹かれているものに頭を悩ませる。
これは月も怒る筈だ。
怒る月の声を聞きながら玄関のチャイムの音に走っていけば宅配の愛想の良いお兄さんがやけに大きく長いものをもってサインを求めている。
宛名は蒼だったが、馴染みのお兄さんはちょっと忙しいのか蒼を呼ばずサインを貰うと素早く帰っていった。
まさか、と玄関で梱包を解けば。
「蒼さん、月さん。」
引きつった笑いを浮かべながらそこに槍を持った八雲が立っている。
「呑み取ったか日本号!」
低い感嘆の声を思い出しながら八雲はこれどうしようかと真剣に置き場所を悩み始めた。
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