早朝、八雲は昨晩送っておいた家庭の事情で行けなくなった朝連の件のメール返信を読みながら、部長が八雲の事情をよく理解している人で良かったと胸を撫で下ろし、明け方の空を見上げてカーテンをひく。
基本的に蒼は朝に弱く、まだ起きていないだろうからその前に朝食の準備をしようと手早く着替えて部屋を出た。
台所の冷蔵庫の中には昨晩蒼が仕込んでいた魚がある。
日本食でもあの人は大丈夫だろうか、と湯を沸かしながら考えている所に体格に似合わぬ端正な足音が聞こえて振り返ると、白い歯を輝かせてアレックスが歩く手を上げた。
「おはよう八雲君」
「おはようございます、まだゆっくりして下さってよかったのに。蒼さんはまだ起きてきませんよ?」
「気遣い無用。朝ご飯の準備?手伝おうか?」
しなやかにブラウスの腕をまくりやる気満々のアレックスに慌てて八雲は首を振ると、アレックスは小さく笑う。
「お客様にそんな事させられません。今お茶を出しますから待っていてくれますか?」
「わかったよ」
しゅんしゅんと鳴る鉄瓶の音を聞き、教えられた手順どおりに八雲がお茶を淹れるのを見ながら穏やかに表情を崩すアレックスにそうだ、と八雲は口を開く。
「ご飯ですが、パンがいいですか?」
買い置きはないが、近くに早朝から開いているパン屋があり、なかなかこれが美味しいのだ、洋食も今からなら作れるしと思いながら聞くと、アレックスはお米炊けてない?と問う。
「仕込んでありますから大丈夫ですが・・・」
「なら日本食がいいな。僕大好き。向こうではもどきが多くてね。蒼が仕込んだ分あるでしょ?俺は蒼の料理好きだし」
まるで親しい、そう恋人のような口振りにお茶を出しながら八雲は何やらもやもやとした心地のままアレックスに背を向けて、調理を始めた時、そう、さっきと同じような体格のいいアレックスが漏らすには不思議な印象を与える笑い声が聞こえた。
「気になる?」
味噌漬の鯖をグリルにいれて、味噌汁を作ろうと動いた手が止まる。
「僕が話せる範囲なら話せるよ?蒼もいいっていうだろうし、予備知識がないとね」
「予備知識、ですか・・・そうですねなら・・・蒼さんとはどういったご関係ですか?」
手で包み込むように湯飲みを抱えていたアレックスはゆっくりと湯飲みをおいて、わお、と両手を上げた。
「ストレートだね!うーん、俺も昨日知って吃驚したんだけどね。最初蒼の元夫の紹介で会って、次はこの店関連で会ったんだよ。蒼の元夫は僕の同級生だからね。」
「同級生?日本の学校に行かれたんですか?」
「いいや、○○スクール」
アレックスの口から出た学校名は八雲も聞いた事のあるパブリックスクールである。
「同じ寮でね。丁度今の時期だったよ、何人か日本好きと夏季休暇に日本に遊びに来て、あいつが家庭の事情で二日間程同行出来ないから案内出来る人を紹介するって言われてあったのが初めての話。で、次に会ったのが日本に買い付けに来た時に厳しい爺さん、おっと翁がいて、翁と一緒に居たのが蒼。この店にね」
ぽかん、と口をあけたままの八雲にアレックスは苦笑した。
何故だかこの店は蒼と月がずっとふたりでしているイメージがあったので、そうではないのだ、という事がしっくりこない。
「蒼が幾つなのか正確な年齢は知らないけどね、でもあの若いみそらでこんな店を構えて仕入れをして審美眼を育ててって、そりゃあ師匠がいるに決まってる。僕みたいに彼女はしているわけじゃないからね。店は継いだんだよ、翁の遺言によってね」
「遺言!?この前の店主は亡くなって・・・?」
「まあ、そんなに心痛な面持ちをしなくてもいいよ、だって翁は天寿、かな?まあそんな感じだったし。最後に若くて綺麗な奥さんと一緒にいられてよかったって。蒼の前では言えないけど僕の前では言ってたからねえ」
「奥さんって、蒼さんが!?」
「そうだよ。ただ譲り渡すよりも結婚してたほうが財産相続で楽に譲れるって蒼さんを口説き落としたらしい。姑息な手を使うねって僕が言ったら若者と年寄りで比べたら姑息な手を使わないと無理だからだってさ。厳しくて気のいい人だったよ」
アレックスの口振りから何度もここへ訪れているのであろう、懐かしさが滲み出ていて優しい気持ちになる。
「おっと話がずれたな、そうそう御堂家の事だよ。仕事上の付き合いで御堂義弘とは何度か会った事があるし、兄の方も知ってるけどね、こういっちゃあなんだけど、あの家はなんか変だ」
「変?」
「イギリスの誰も住まなくなったゴーストハウスのような雰囲気がちょっとあるんだよ。気をつけないとね、食べられてしまうって蒼が」
おお恐い、とアレックスが胸元にある十字架を引き寄せて唇を落とす。
「食べる?」
「だって、ゴーストハントに行くんだろう?」
へ、と妙に息の抜けた八雲の声と共に台所の扉が開いて、そちらへ目線を向けると寝巻きの浴衣姿の蒼が軽く結んだだけの髪の中に軽く手をいれて、八雲君、と朝の挨拶の前に八雲を指差した、正確にはその後ろ。
「干物にしたいならやり方間違っていると思うのだけれど」
寝ぼけた声で言われて振り返る。
「あーーーーーーー!!!!!」
魚は黒焦げで鍋は出汁を入れたまま吹き零れて酷い惨状になっていた。
「何の話をしていたの?」
結局蒼が作り直した朝食が並び、ひじきの白和えを口にいれながら申し訳なさに身を縮める八雲の頭を軽く撫でた蒼はいいのよ、と笑って八雲の皿に自分のシシャモを一つ足してくれた。
「御堂の話。僕だってまあ結婚したってのは吃驚だったからね。蒼は翁と結婚したって思ってたから。翁の前にアイツと結婚してただなんて。羨ましいというか、なんというか・・・あ、今の日本語変かも自信ないなあ。翁が聞いたら叱られるよ」
「あの人はそんな狭量な人じゃない・・・と思う、多分ね。まあ昔の話だしね、一応アレックス他の女性の前ではこういう話はしない事。離婚原因聞かないだけましだけれどね」
「聞いてもいい?」
「話すと思う?」
だよね、と悪友のように笑う二人は昔からの友達のようだ。
昨日の夜から衝撃の事実が判明してばかりで混乱からまだ抜けきらない八雲はぼんやりと、月さんも結婚しているのかな、となんとはなしに思った。
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