「暑い、何故こんなに暑い」
蒼は畳の上で額に手をあて、絽の着物裾を乱してだらしなく寝そべった。
風鈴の音がして、真上の太陽に苦笑しながら八雲は夏ですからねえ、と言えばそれよ、と蒼が唐突に腕を使って起き上がった。
ああ、腹筋だけで起き上がれないのか、と妙な納得をしながら八雲は膳を蒼の隣に置いて、自分の分の素麺を手に取る。
因みに素麺は島原素麺でこしがあって非常に美味である。
暑さに耐えかねて冷房のきいた部屋から出てこない月には後で持っていこう、と先刻蒼が茹でた素麺を啜れば美味である、と己に頷いた。
「何故こんなに暑いのか」
「夏ですからねえ」
蒼は脳みそも茹であがっているらしく、まともな反応をするほうが損だという事は既に学習済みであり、本日の夏休みの宿題を済ませた八雲の脳みそも実は茹であがった状態やもしれぬ。
「信じられない」
「暑いのはしかたないですからねえ、いくら月さんが夏よ涼しくなれ、と命じた所で夏は夏のままですから蒼さんに夏を覆せるわけがないと思いますよ」
「確かに」
真面目な顔で蒼は頷く。
「まあ月さんの事ですから真冬には寒いから温かくなればいいと言うのでしょうけれど。月さんは春好みですからねえ」
「私は晩秋が好き」
「そうですか」
クマゼミなが鳴いている。二人に会話は成り立たない。
八雲は暑そうに扇で自分を扇ぐ蒼の向こうに豚の形をした蚊取り線香の煙がゆらりと揺れるのを見ながら蒼さん、と声をかけた。
「食べないんですか?」
「食べましょうか。あー・・・冷酒「駄目ですよ、先日倒れてお医者様から駄目って言われてるでしょう?」
「八雲が月みたいに口うるさい・・・」
嘆き悲しむ蒼の手に器を載せて、その麺汁の中に素麺を落とすと、それを口にいれて座り直す蒼の髪の解れ毛に目をやり、更にすすきの描かれた帯を見ると何故、と口に出た言葉に蒼が何が、と反応する。
「ええと、暑いなら月さんみたいに半袖着ればいいじゃないですか」
「だから絽を着てるんじゃないの」
何を馬鹿なことを、と言わんばかりの蒼にああやっぱり会話が続かないと苦笑して、食べ終えた器を置くと、八雲は蒼の扇で蒼を扇ぐ。
これにしてもそうだ、冷房をいれてしまえば早いものを蒼はあまり冷暖房を使うのを好まない。歌を歌うのが好きな彼女らしく、喉を痛めるの嫌なだけだと言うのもわかるが、今日のように居間で勉強をしていた八雲に「エコ!」と叫び冷房を切ったのは相変わらずというか・・・因みにエコがエコロジーなのかエコエコアザラク(以下略)なのかは不明だ。
そんな思考を巡らせる八雲も随分脳みそが溶けているようである。
今日は店は開店休業状態らしい、客も亭主も。
と思ったとき店のチャイムが鳴って、こんにちわ、蒼さん居とお?と聞き覚えのある声がして、蒼さん、と声をかける前に手早く髪を直して店の方へと行った蒼の背中を追った。
店の椅子に早くも座り、手早く冷たい緑茶を差し出されているのは前にも見た、根付を大人買いしていた男で、恰幅のいい腹を揺らしている。
にい、と上がった口角は好色さを隠しもせず、その顔の通り48手の根付を購入していった事を思い出し、八雲は店には出ずそっと向こうからは見えず此方からは見える位置に移動すると、店の冷気がひんやりとして心地よさにうっとりとした。
「お久しぶりですね」
「ほんとに。先日きたら蒼さん倒れたって丁稚の子が言って吃驚したよ。
これお見舞い、この暑さにやられたんか?」
「ええもうおっしゃる通り。たいしたことないんですよ、あら水菓子!嬉しいです、冷やしてきても?」
「少し凍らせると旨いよ」
「有難う御座います」
嬉しそうに冷凍庫に菓子を直して早々に何か箱を持って来た蒼に満面の笑みを浮かべる男。
「なんかあるんか」
「なんかあるんですよ」
ふふ、と顔をつきあわせて含み笑いをしている二人を見ながら八雲は前に月にあのお客さんに蒼さん狙われてるんじゃないですか、といつも接客に蒼を指名し、親しげな様子をみせる客に心配して言うと月はああ大丈夫、あれは同類っていうのよ。とわけのわからないことを言われたのを思い出しながらも蒼が出す品物が気になりだした。
「これ、いい塗り物じゃありません?文箱とあと最近入ってまだ修繕し終えてないんですけど特別にからびつ!ねえこの色合いいいとおもいませんか?」
「蒼さんやっぱり目の付け所が違うねえ!ああこれは!」
「やっぱりおわかりになりました?」
喜色を隠そうともせず言う蒼に男の更に嬉しそうな声が響く。
「よう見つけたなこんなん」
「とあるつてを辿って。修復した暁にはいの一番にお見せしますから。
でも今日は一番見せたいのはこれじゃあないんです」
箱を引き寄せてそっと開いた中身を見た男は「ほわ!」と妙な悲鳴を上げる。
「蒼さん!」
「お好みでしょう?この精緻さ、細密さ、絶対にお気に召すと思ったんですよ」
早速手に取って見ているその品物は盃らしい。
何の変哲も無い盃に見えるが、と目を細めてよくよく見て見れば・・・
八雲はぎょ、とした。
閨の絵が内側にしっかりと描かれていたからだ。
驚いた反面またか、という気持ちもある。
二人は含み笑いをしながらその品物を眺め次には盥をみはじめたあたりで八雲はその場を後にした。どうせ聞いても見てもわからない世界が此処から先繰り広げられるから。
自室に戻ると生暖かい風と共に風鈴の音色を聞いて、自分もあんな大人になるのかと思えば溜息しか出なかった。
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